まず、パラオの歴史をあえて簡潔にまとめて言えば、15世紀後半から現在にいたるまでまで外国に翻弄され続けた歴史と言っても過言ではないだろう。

パラオには少なくとも約1500年以前に、何らかの文明があった事が遺跡調査により分かっているが、どのようなものであったかは未だに解明されていない。

大航海時代に始まった西洋との接触により銃器が持ち込まれる事で、パラオが南北に分裂するほどの紛争があったかと思えば、18世紀後半からは当事者を抜きにした外国統治や植民地化政策が、スペイン、ドイツ、日本と大国の利害というパラオの人には何も関係の無い理由で行われたのだ。それにより疫病が流行しパラオの人口が僅か数百人にまでなったという話しもある。また、パラオの人々にはまったくといっていいほど関係のない太平洋戦争ではぺリリュー島やアンガウル島で日米の激戦が行われるという巻き添えを受けているのである。

戦後、米・ソによる東西冷戦構造の中、「ズーセオリー(パラオを含むミクロネシア全域を事実上アメリの統治下に措く事で有事の際には軍事戦略上の拠点とすることを考えながら、フードスタンプ制度を用いる事で産業の育成などをおこなわずに積極的に自立を促さない)」という米政府の政策によりこれといった産業育成が行われずにいた。【*そのおかげで素晴らしい自然環境が残っているとも言えるが、ビキニ環礁のように核実験の場に選ばれていたかもしれない・・・?】

60年代後半から米政府のミクロネシアに対する経済負担が大きなものとなってきたことや、米国内の民主化運動等々の内政問題が多発するなかで、ミクロネシア地域内でも自治権を求める声が強くなりはじめた事などによって、1965年にミクロネシア議会が発足した。当初、米政府はミクロネシア地域との連邦制(コモンウェルズ)を求め、ミクロネシア側は自由連合制を求めたことや、ミクロネシア内でも其々の利害関係が複雑に絡み合う事でなかなかまとまらず、ミクロネシア議会も度々紛糾した。【*ミクロネシア議会:マリアナ、ポンペイ(ポナペ)、チュック(トラック)、ヤップ、パラオ、マーシャル)】
69年から始まった米側との交渉の結果、1978年パラオを除くミクロネシアが、北マリアナ連邦、ミクロネシア連邦、マーシャル連邦として自治政府発足や独立をした。
そんな中でパラオは81年1月1日に自治政府発足(国連委任によるアメリカの信託統治領)やパラオ憲法施行が行われ、初代大統領にハルオ・レメイク大統領が就任した。しかし、パラオ国内はコンパクト(アメリカとの自由連合協定)賛成派、反対制派が大きく分かれる事になり、同年9月には公務員のストライキや大統領府の爆破事件など、ちょっと物騒な事件が続いた。83年には第1回自由連合協定国民投票が行われたが否決。84年にも否決され、85年6月には大統領暗殺事件がおきたり、88年にもラザルス・サリー大統領が不審な死を遂げるなどの事件が起きたりと今のパラオの自然の素晴らしさしかしらない外国人にはちょっと想像がつかない時代でもあった。
自由連合協定国民投票は何度か議会修正されながら8回行われ93年にクニオ・ナカムラ大統領就任後、11月9日に採択された。
その結果1994年10月1日。米政府との調印が行われ軍事防衛権を除く自治政府として独立を果たした.。(*東西冷戦構造が崩壊したことによって米政府はより積極的に自由連合成立を後押しするという、大国のエゴがここでも垣間見る事ができる。)

94年12月に、国連総会にて185番目の国連加盟国として承認され、95年にはSPF(南太平洋フォーラム)にも加盟した。

96年にはパラオの動脈でもあるK.・Bブリッチが崩壊し、ライフラインに多大な影響を及ぼした。ナカムラ大統領が非常事態宣言を発令したことにより、当時大統領選挙の対立候補であった、ジョンソン氏が選挙より復旧を優先すると選挙戦からの辞退を表明し、97年にはナカムラ大統領が再任された。

2001年1月1日に現大統領トミー・レメンゲサウ大統領が就任。2006年現在2期目。

観光産業が国の基幹産業でもあるパラオは、環境保全と経済発展という一筋縄では行かない問題を抱えながら21世紀を歩きはじめた。
しかし、例えば2002年9月11日に起きた米国同時多発テロと報復戦争による観光客の減少など、新世紀も少なからず外国の影響が影を落としているのが現状である。
(テロは絶対に許される行為ではない。しかし、弱者が強者に牙を向けた理由をアメリカは勿論、日本を含む大国側ももっと真剣に考える時なのではないだろうか?大国側にも反省すべきところは数えきれないほどあると思います。)

パラオは今後、自然環境と人間社会との調和と共存という21世紀の人類共通の命題について、世界に向けてお手本となる可能性を秘めている、地球上に残された数少ない国家であると期待したい。

最後に、この歴史解釈は極めて独断と偏見に満ちていることをお断りしておきます。                               
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1500年:スペイン船がミクロネシアの島々を発見。
1579年:イギリス人フランシス・ドレイクがパラオに来る。
1710年:スペイン人フランシスコ・パディラがソンソロル島を発見。
1783年:イギリス人ヘンリー・ウィルソン船長率いるアンテロープ号がアラカベサン沖で座礁。大酋長アイビドールの許可を得てウーロン島で帰国用の船を建造。帰国時にアイビドールの息子リブーをイギリスに連れて行く。
1791年:イギリス人ジョン・マックルーアがリーブーの訃報を伝える。数名のパラオ人と共にニューギニアへ向う。
1821年:文政4年。宮古の漁師がパラオへ漂着。4年間を過ごす。
1823年〜:イギリス人によってもたらされた銃器などにより北の大酋長アイビドールと南の大酋長ルクライとの紛争が激化する。イギリス人とパラオ人との間でも争いが多発。
1867年:イギリス人殺害の罪によってアイビドールが処刑。
1883年:イギリス司令官が南北二大酋長に文書にて友好を誓わせる。
1885年:スペインによる殖民地となる。
日本人による貿易がはじまる。
1891年:スペインによる本格統治がはじまる。
1899年:米西戦争に敗れたスペインがパラオ等をドイツに売却。
1901年〜:ドイツ領となり、リン鉱石採掘やタピオカの栽培などが行われる。
1914年:日本が第一次世界大戦に参戦し、ミクロネシアを軍事占有する。
1920年:国際連盟発足。赤道以北の旧ドイツ領を日本が占領し統治する。
1922年:日本政府南洋庁を発足。南洋庁本庁をパラオコロールに設置。
1944年:パラオも太平洋戦争の戦火の渦へ。9月から11月にかけてぺリリュウ島アンガウル島で日本軍が玉砕。
1945年:第二次世界大戦終結。アメリカの軍事占有下になる。
1947年:国際連合によってアメリカの信託統治領となる。
1965年:ミクロネシア議会発足。二院政。
1969年:ニクソン・ドクトリン交渉(米国、ミクロネシアによる第1回政治的地位交渉)
1970年:第2回交渉。ものわかれ。
1974年:第8回交渉。米側が自由連合案を提示。
1975年:ミクロネシア議会憲法草案承認。
1978年:ヒロ8原則合意。ミクロネシア憲法草案住民投票。否決(パラオ、マーシャル)
1979年:4月パラオ憲法草案作成。
7月住民投票で一度は可決されるも投票に違反があったとして無効判決となる。10月に修正案再投票で否決。
1980年:憲法草案の住民投票が可決。
1981年:1月1日パラオ国憲法施行。
ハルオ・レメイク初代大統領就任。
公務員ストライキ。大統領府爆破事件。
1982年:ミクロネシア連邦、マーシャル諸島共和国が自由連合協定を締結。
1983年:第1回自由連合協定住民投票。(否決)
1984年:第2回自由連合協定住民投票(否決)
ハルオ・レメイク大統領再選。
1985年:ハルオ・レメイク大統領暗殺。
アルフォンソ・オイッテロン副大統領が暫定大統領に。
ラザルス・サリー大統領就任。
1986年:2月第3回、12月第4回住民投票(否決)
1987年:第5回住民投票(否決)。憲法修正案が一度は可決されるが最高裁により無効に。第6回住民投票(否決)
1988年:8月ラザルス・サリー大統領不審死。トミー・メレンゲサウ副大統領(現大統領の父親)が暫定大統領に。
1989年:ギラッケル・エピソン大統領就任。
1990年:第7回住民投票(否決)
1992年:憲法修正案住民投票が可決。
1993年:クニオ・ナカムラ大統領就任。
第8回住民投票が可決される。
1994年:自由連合協定調印。
自由連合国として独立。
国連総会にて185番目の国連加盟国に。
1996年:K・Bブリッチが崩壊。
1997年:クニオ・ナカムラ大統領再選。
2001年:トミー・レメンゲサウ大統領就任。2005年:トミー・レメンゲサウ大統領2期目就任。                 2006年10月1日:コロールからマルキョクへの遷都完了。

 
 
 
メモ1)
パラオ国憲法は世界で唯一の非核憲法であったが、自由連合協定により米国が軍事防衛権を持つため、事実上棚上げされたままである。

メモ2)自由連合協定
(COMPACT OF FREE ASSOCIASION)
50年間にわたり、パラオの軍事防衛権を米国が持ち、パラオは自治権、外交権を持つ。また、15年間分の経済援助額として約四億五千万ドルの資金提供を行うというもの。

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